レオーン3世の息子コンスタンティノス5世は、これに反対するものを容赦なく弾圧・処刑したが、論争は収まらなかった。一方、聖像をゲルマン人への布教に用いていたローマ教会も、この決定を非難するとともにそれまでコンスタンティノポリスに送っていた税の支払いを停止し、これによって東西教会の対立が決定的となった。
結局、787年にコンスタンティノス5世の息子レオーン4世の皇后エイレーネー(アテネ出身)が主宰した第2ニカイア公会議(第七全地公会)によって、イコン崇敬の正統性が再確認された。
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その後、東ローマ帝国では、815年にも再び聖像禁止令が出された(843年まで)。しかし、既に小アジア側でも聖像破壊への支持は低下しており、大きな運動にはならず、結局聖像崇拝が復活した。
聖像破壊論争によって、既に4世紀から文化的・政治的に亀裂が生じつつあった東ローマ皇帝・コンスタンティノポリス総主教とローマ教皇の関係は決定的に悪化した。800年にはローマ教皇がフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、東ローマ帝国から完全に自立したのである。
いっぽう、東ローマ帝国内では、聖像製作者の拠点で、大土地所有者でもあった修道院(帝国の耕地の3分の1が修道院領だったという説もある)をコンスタンティノス5世らが徹底的に弾圧した結果、修道院領が没収され皇帝領となった。これによって、皇帝の権力基盤が強化され、古代ローマ帝国後期からはじめられた皇帝の専制君主化が完成へ向かうことになった。このため、そもそも聖像破壊運動自体が修道院勢力を弱体化させるためであったのではないか、とする研究者もいる。